2020-12-14
〜プロローグ〜
これまで自分たちが造っている松の司というお酒について、そこに貫通する“味わい”や“松の司らしさ”といったものについて、肌感覚で分かってはいても、あまりはっきりとした言葉で表現して来れなかったように思います。
現時点でそれらを完全無欠の言葉で表現するのは難しいですし、おそらく不可能だとは思うのですが、当蔵の石田杜氏がここ数年取り組んできた“水”と言う観点から何かその裾にでも手が掛かるのでは無いかと感じました。
そこで『水から考える松の司』と題しまして、松の司のお酒全体に共通する“味わい”であり“何か”を、その仕込水から考えてみようと石田杜氏にインタビューを行った次第です。その話は水についてだけには留まらず、“井戸とは” “地酒とは” “理想の味わいとは” というさまざまな思想がふんだんに詰まったインタビューとなりました。
そんな新鮮な記録を3話に分けてお届けします。どうぞお楽しみください。
同じ硬度でも違う味
ーーここ数年、お酒の味に対する“水の質”について色々と検証されていましたが、どのようなきっかけでスタートしたんですか?
石田
ずっと改良をしていくよね。どうしたら良い酒が出来るかってことについて。ステップ・バイ・ステップで麹について考える、酛(=酒母)について考える、原料(=米)についてはウチの場合もうそこそこ揃ってるから・・・。
結構色々とグルコース濃度とかも含めて“味わい”について手で触れるところは触ったんやけど、出品酒に関してどうしても引っ掛かるクセやテクスチャー、舌触りが出て来るんで水によるところがあるんじゃないかってとこに落ち着いたのが最初かな。
色んなことが同時並行してるんやけど、隆兵さん(=京都市の桂にある「隆兵そば」)とこの水が丁度アメリカ硬度で25mgでウチとこの水も25なんやわ。それで飲み比べてみたら明らかに違うんやわ味が。硬度っていうのは基本的に3つの元素のことでしかないから・・・。
ーー3つの元素・・・ですか。
石田
うん。カリウム、マグネシウム、カルシウム。硬度ってそれらの総量だけの話で。その一個一個の味も実際違うし、硬度だけで話がちやけど、味わいに関して硬度ってあんまり関係ないんじゃないか?ってところから比較してみようって、それがまず一つ。
松瀬酒造 杜氏 / 石田 敬三
枯れた井戸
石田
で、その時丁度ウチの井戸も枯れたんやわ。使い過ぎて。
ちょっと話が錯綜するけど、井戸ってなんやろう?って。
水が湧き出るところに龍神さんを祭ったり、蛇を祭ったりする神社が結構あって。水に対して、湧き出ることに対して、その土地に対して信心するやん。お米に関しては日本酒の蔵って、稲は古事記・日本書紀でも言われてるように日本人の身体そのものやっていうので信心してるけど、水に関しても信心してて。
そこについてあんまり考えてなかったんやけど、自分がその、洗い物したり洗濯したり水をいっぱい使ったら井戸が枯れてしまった。井戸って寿命があるし、体力的な能力もあるし、実は生き物なんやなと。
ーー絶えず変動してる生き物ですか。
石田
そう。だからまず水についての理解と、井戸についての理解も進めないとって思って。土地への感謝っていうのと同じで。
思いとしてね、地酒ってものについて、自分が足で踏んでるところから出来てきたものを何かカタチに落として人に知ってもらうってことについて、もし自分とこの水が悪くてもそれを使い切らんと地酒に昇華出来ないんやって思ってて。
自分が井戸を傷めてしまって、新たに井戸を掘ってもらって、そこに信心を込めて社を作ってもらったところから、どう活かすのか。
ーーそれが水に対するもう一つのスタート。
石田
自分とこの個性を知ろうと思うとやっぱり他のとことの比較がないと理解が深まらへんから。よく硬度で言われがちなところを、硬度じゃなくって、誰も教えてくれへん舌触りとかそういうことを自分で比較して醸造してみてやるしかないなっていうのが始まりかな。
大地を舐めてきた味
ーーその舌触りやテクスチャーについて、色々と比較された中でそれぞれの個性の違いってどんなところでしたか?
石田
大きく今思ってるのは、“雨の水”っていうのはホンマにニュートラル。もちろんH2Oに近いやろうし何も入ってない感じ。
雨水をそのまま飲んだのかっていうと、そういうことじゃなくて浅井戸と深井戸の差がまずある。深井戸に関してはミネラルって言って良いんやろうけど、やっぱり何か質感があって、質量として重みとか存在感がある。ウチの場合も深井戸やん。
それって何かって言うと結局“石”なんやわ。
喜多さん(=喜楽長の醸造元 喜多酒造)とこの水がまったりするのはやっぱりカルシウムやろうし、それは海のせいやし。カルシウムは貝殻やから。フィリピン海峡からグーッと海の底が押し上げられて山になってて、そこを水が舐めて来てる。カルシウムが溶けてる溶けてないじゃなくて、何かその石っていうもんに、まぁ大地って言ったらおっきな言葉になるけど、そこを舐めて来るってことからの味。
石田
ここ(=松瀬酒造)やったら花崗岩で、熱変性を受けた硅砂とかがグッと押し固められたその熱にならへん熱がやっぱりあるわけ。
で、隆兵さんとこやったら雨水に近い浅井戸なんやけど、愛宕山の方が硅砂が多くって砥石が採れるくらい。そういう所のは上滑りするくらいサラサラしてる。口の中でサーっと速い。
水は水やって言いながら、結局水は色んなイオンとか塩分、ミネラルとかそういう石の持ってるもんを、エネルギーとか気みたいなもんを持って来る気はする。石が水へ媒介するんやろうなって。
ーーはい。
石田
転じると、じゃあ酒で何を表現しなアカンのかって言うと、表面的には“水”なんやけど、水の個性っていうのは石に転写されたものの溶媒やん。その溶媒に合う仕立てを米で肉付けしてやるっていうのが地酒っていうか、地方の小さい造り酒屋が造っていかなアカンものなんかなって。
ーー土地の味・・・。
石田
うん。土地の味っていうのはそういうことになるんやろうなって。だから、ここに住んで、ここで飲んでるからそれが土地の味なんやっていうのじゃなくて・・・。
華奢な人にゴツい服が好きやからって着せたりとか、すごい骨格あるのに細身の服が好きなんやって、そういうミスマッチがあったらアカンくて。その水が性分として持ってるものと、上に被せてやるものを品良くするっていうのが仕立てなんやろうなって思うんやわ。自分らはどこまでも加工業やから、加工業としてそういう理解がいるんやろうなと思う。
<つづきます>
カテゴリー:水から考える松の司